昭和51年09月02日 朝の御理解
御理解 第55節
「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。」
一心に頂くお参りをしておると、いわば日参を続けておるとと言うても、その信心内容が整ってまいりませんと、有り難くなれません。また年をとっていくに従って、大事にされる神様に大事にされる。人からも大事にされると言う事になりません。なるほど若い時には誰でも、いわば賃を取ってする仕事があると仰います。若い時には誰でも頼んでくれる。ですからまた喜んでも貰う感謝もしてもらう訳ですけれども、年をとって来るとそう言う訳にはいかん。
ですから信心をさせて頂く者は、年がとればとるほど大事に取り扱うて貰えれるようにならなければならない。だからその内容がいわゆる一年一年有り難うなって行くという信心でなからなければ出来ません。私の親教会での、大変いわば熱心と言えば熱心。日参を教会の近所に住んでおられる方で、やはり八十過ぎまでぐらい、若い時から熱心に信心をしておられました。また一家を挙げての信心でもありました。もう朝参りとか近所ですから、昼参りそしてまた夜参りと言う様に熱心でした。
けれどもこのお婆さん、あんまり人が大事にしませんでした。そしてもう拝むとだけは、もうそれは執熱に拝まれました。もうそりゃ本当に、あの執熱といって執熱かち、こげん言いますが、もう執熱かくらいに拝まれる。けれども、一年一年有り難うなって行っている様な模様でもなからなければ、人から大事にもされられない、むしろ敬遠されると言う様な方でしたね。ですから信心を何十年ただしておるとか、続けておるというだけではいけない。
それが昔の人達はあのう御祈念をする時に、そのう祈りの言葉が横におると聞こえるくらいに、はっきりしておりましたですよね。もうそれが自分方んお店の事と、自分達の孫の事ばぁっかりの願いでした。もうそれは繰り返し繰り返しもう執熱かぐらいに、あの願いをなさりました。それでまぁ教会からもあんまり大事にされなさらなかったような感じですし、別にだからそれでまぁ熱心に参られるけれども、ほんなら役員をしておられるという事でもなかった。ただ参るばかり。
しかも参る事がただ我利我欲のためのばっかりと言う感じでした。だから成程そのおかげを頂きなさる体験と言うものが生まれてくるから、まぁ拝まにゃおられない、参らにゃおられないのでしょうけれども、もう全然話を聞かれない。親先生が言いよりなさいました。「もう話そうと思うと我が言うこつばっかり言うちから帰んなはる。もうただあん婆さんなもう、ほんなこつ拝むばっかり」という風に言うておられました。だから心が開けないわけですね。おかげを頂くからお参りをする。
それは若い時には賃を取ってする仕事でも、元気ですから出来ますけれども、年をとってくるとそういうわけにはいかん。いうなら仕事が出来んようになる。出来んようになるけれども、人がやっぱり大事にしなければおられないというのは、その内容が一年一年有り難うなって行くという、信心を身に付けなければ大事にされないと言う事が分かります。ですから又ここで言える事は、一年一年有り難うなっていっていないとするならばです、貴方の信心はちょっと可笑しいですよと言う事になるです。
そういう信心がほんなら、死ぬまで例えば続いたに致しましても、神様からも大して大事にされる事はない、人からも大事にされる事はない。もうあの婆さんがもう執熱か執熱かと、言われるくらいな事で終わってしまわなきゃなりません。あのお婆さんのおかげで助かったという人達が、周囲に沢山出来るような、その有り難いという心に、おかげが伴い、その有り難いという心に人が付いて来る様な、信心でなからなければならないと言う事であります。そこでほんなら皆さんの祈り。
皆さんの願いと言うものを思うてみて、果たして自分自身がおかげを頂くと言う事のためだけに、熱心にお参りをしておるというならば、若い内に今の内に修行の出来る間に、ひとつ改めておかなければいけないと言う事になります。そこで今月の信心のまぁ焦点と言う事を、夕べの月次祭に聞いて頂いたんですけれども、お役に立ちたいという一念が、年を取るに従って育って来るおかげです。お役に立ちたいという一念が、年は取って参りましても、心が成長すると言う事は限りがありません。
果たして自分の信心がです、このまま育っていったら有り難うなっていくかどうかと、言う事はです、自分の願いの内容を思うて見れば分かります。信心は大きな信心が良い。迷い信心ではいかんと、御理解二十五節には説いてあります。一心と定めい。その大きな信心と例えば申しましても、一遍にと言う事ではありません。出来ません、育たなければなりません。
昨日、大阪の泉尾教会の機関紙が、まさまつ君がこれ頂いておるそうですから、これを持って来てくれました。これにちょうどここで申しますなら、八月の一日から一月間、夏季信行を致しました。いよいよ太くなろうと言うテーマの元に、信心をまぁあのように決めさせて頂いたんですけどね、それと同じこれは、あの土用の入りから、土用の明けまでをです、まぁ七月二十一日から八月二十日まで、信行があっております。その信行のいうならば御神願信行期間とあります。
例えば夏季信行とここでは申します。御神願信行期間「神様の願いがどうぞ成就いたします様にという祈願祭、祈願祭じゃない信行であったと言うのです。その内容は人の助かりへの行願一念とございます。人の助かりへの行願、修行の行です、願い、一念。一念発起の一念です。もう合楽辺りの願いの焦点と、もういうならばだためが違うと言う事です。これが、信者一同の願いの焦点がここにおいてあるです。もちろん例えば来年が五十年。ここは来年が十年と言うのですから、教会としてのそれも分かる。
けれどもやはり段々、こういう信心に、信者一同が進んでいかなければならない。あの暑いのにひと月間、一生懸命の普通お参りが出来ない人でも、せめて夏季信行の時だけはと言うて、それこそお広前が割れるような勢いで御祈念を致します。そのほんなら御祈念をさせて頂いておる、その願いというか願行というか、それはどこに願いがおいてあるかというと、御神願信行と言う事であります。神様の願いが成就いたしますようにという修行であります。
その内容はです人の助かりへの行願一念とございます。だからこれは勿論合楽の信心も段々、合楽でも一番初めはいうなら私は、如何に天下国家の事を祈っても願っても、内容のない信心ではつまらん。もう一番切実に今心の中に感じておる事を祈りの内容とするがいい。痒いなら痒い事をお願いします。痛いなら痛い事を、どうぞと言うて願うのが一番、神様には通う。それもその日本中の事から、天皇陛下、皇后陛下の事から、御皇室の事から。その時分はそういう願いをせねばならんという。
その一つの今の祈願詞ですね、様なものがございました。もう天皇陛下皇后陛下の事から皇室一般の事から、もちろん教団全般のそういう願いをまず、先にしてから自分の事を願えと言う風に私共は教えられました。けれどもね如何に天皇陛下皇后陛下の事を、祈り願うと言うてもです、天長節に旗を上げるとを忘れるごたるこっじゃ値打ちはなかと私は言いよりました。ただ言葉で唱え言葉だけではいけないと言うのです。
だからまず自分が実感して金がないなら、金のお繰り合わせを、身体が弱いなら健康になりますように。もうとにかく自分が実感しておることを願えと言う様な信心から、段々その実感する内容が、確かに合楽でも変わってきて、いうならば合楽示現活動に参画さしてもらうと言う様な、大変高度なところに信心がおかれております。それがほんなら信者一同で言うなら燃えるような、例えば夏の祈願祭の願いの焦点がです。
本当に合楽示現活動に参画させて頂く、世に和賀心時代を作ると言った様な事が、実感として祈れれるようになった時に、私は泉尾の教会のようなおかげになって来ると思うです。もうスローガンが合楽の場合は打ち出してはある。けれども銘々の信心の手元のところを言うと、なかなかそう言う訳にはいかない。出来ておる人もありゃ出来ていない人もあると言う事なんです。
いうなら打って一丸となって、祈願の信行すると言うてもです。打って一丸となるというと、もっというなら程度の、まぁいうなら低いおかげのところになって来る訳であります。だからそういうほんなら、程度の低い信心が一生続いていっても、若い時から年をとる。七十になっても八十になっても、やはり熱心に信心をしておってもです。ただ自分の痛い痒い事やら、ただ自分の子供やら孫やら、自分方の店の事だけがです、繰り返し繰り返し執熱かごと、祈ったり願ったりしたって有り難くはならんと言う事。
椛目の宮崎さんじゃないですけれども、本当に死ぬか生きるかの所を通らせて頂いて、きっと全快のおかげを頂いて、大変なおかげを頂く様になったら、もう本気でお役に立つ信心にならせて頂きたいと、いう願いを立てたと言われております様に、その所を話しておられたら、もう胸に込み上げて来る様な実感でお話しになりました。どう言う事でしょうね。お役に立つお役に立ちたい、お役に立ちたいと一念を燃やすと言うたら。
昨日もある方がそう言う事がありました。「先生、合楽示現活動に参画させて下さい」と言うて願いよりましたら、悲しゅうなりますがどう言う訳でしょうかという人がありました。いわゆる涙がこぼれてくると言うのです。この悲しいというのはです。ただ苦しいから悲しいのではなく、教祖様のいうならばお言葉の中にもありますように、ご自分の一生を述懐されて、どうしてこの様な事が出来るようになったであろうかと思うたら、悲しゅうて悲しゅうてと言うておられます。悲しいまでの喜びなのです。
それは教祖様の悲しいまでの喜びではない、神が悲しいのぞ神が、神の喜びだぞと神様のお答えがあっております。金光大神お前が悲しいのではない。天地金乃神が悲しいまでの喜びを、そなたの心の中に現しておるのぞと、いう意味を言うておられます。宮崎さんが今度全快のおかげを頂いて、退院のおかげを頂いたら、永年信心だけはして来たけれども、ただ自分のいうなら我情我欲のために、信心を続けて来た様な事であったが、これからは少しは増しな、神様に喜んで頂く信心。
お役に立ちたいお役に立つ信心を、どうでもさせて頂かねばならんと祈りました、願いましたと発表しておられたら、もう胸が詰まって言葉にならないくらいであった。聞くものもやはりそうであった。それは宮崎さんの感動でしょうか。そうじゃない。神様の感動であり神様のお喜びなのです。神様に喜んで頂く信心とか、祈りとかが出来るようになる時に、神様の喜びがこちらに帰って来るから、それが偉大になっていけば偉大になって行くほど。深く広くなっていけば深く広くなって行くほどに。
深い広い偉大な有り難いという心が、育って来る事が頂ける事が分かるでしょう。信心すれば一年一年有り難うなって来ると言う事は、信心が育つから有り難くなって来るのです。有り難うなろうとして有り難たくなれるもんじゃありません。有り難くなりたいと思うならばです、それこそ泉尾の夏季信行のその焦点が、御神願信行これにこの事に打ち込んで、ほんなら修行をさせて貰う。人の助かりへの願行一念、この一念に燃えてお互い信心修行させて頂くならばです、喜びは絶対と私は思います。
もちろんその喜びにおかげはまた絶対と思います。だから自分の信心の内容と言うものがです。絶えず前進にまた前進を続けておらなければなりません。信心は大きな信心が良い。迷い信心ではいかん。一心と定めと教えられてあります。自分の小さい願いのために、朝参り夜参り、例えば昼参りをさせて頂いても、それは一心に願わせてもらうから、おかげになりますでしょう。けれども喜びが帰って来る様な信心にはなりません。
朝参りのいうならば修行をです、合楽教会大発展の御神願ご成就に相成りますように、ためにもし朝参りが出来るようになったら素晴らしいでしょうね。私が一番感心致します事は、月末に必ず日奈久の富永先生がお礼参拝、ご信者を伴うてお礼参拝にされます。そして月の初めの四日の神愛会には、またもちろん見えられます。そすと十五日のここでの富久信会には、あちらで商売をしておられる方、まぁ日奈久教会のいうならば、中心になっておられる方達が五、六人、必ずお参りになります。日奈久からですよ。
その方達の私はお届けを何時も見せて頂く時に、繁雄さんと話す事ですがね、もうそら本当にたまがるです。おかげ頂く人は違うと言うて、繁雄さんと話しますですね。その第一にです合楽教会大発展の御神願ご成就のためにという、お初穂が必ず伴うております。しかも千円、二千円じゃないですみんなが。だから本気でその事を、合楽教会の大発展の御神願が成就する事は、日奈久教会も同時に発展する事だと確信しておられるからです。もちろん合楽教会の大発展の御神願が成就する事はです。
教団の発展はもちろん、世界に和賀心時代をしいていく、作っていくというそういう大きな願いにも応えられると言う事を確信してあるからです。そして一人一人でここでお届けをされますのにですね。もうそれはそこへ他へ聞こえるぐらいです。今日もお引き立てを頂きました有り難うございましたと。どうぞ合楽教会大発展の御神願がご成就に、相成りますようにと、ここで願われます。その一人一人のお届けを聞かせて頂きながらです。もう本当に神様が喜んでお受けになるだろうと思います。
そのお喜び下さっての、いわば受けられる照り返りが、その一人一人のそういう願いをせずにはおれない人の上に、喜びとなって現れてきます。その喜びがおかげを呼ばないはずがない。と言うてほんなら、さぁ今日から自分の事よりか人の事を願えと言うた所で、出来る事ではございませんけれども、そういう願いが出来れるような、豊かな大きなしかも美しい心が育っていく、修行をしなければならないと言う事が分かります。
真剣に祈る。真剣に願う。今度婦人大会のために会長であります、熊谷さんが日々もう、しら真剣なお取次ぎを願われます。もちろん婦人大会の事はそうですが、その役員一人一人の事幹部の方たちの事。次には皇室にしてお願いしてある、竹内先生の上に万事ご都合お繰り合わせを頂けるようにという願いをなさっておられます。なら皆さんもやはり幾らも、それをなさっておられる方がございます。けれどもやはり会長としての、その責任においてですか、その願いはまた真剣です。
この頃からもう十日か十五日前でしょうかね、もうあれを医者に見せたならば、もう絶対ようか腸ち言うじゃろち、あの北野の秋山さんがね、そのどういうとにかく胸の、こちらからこちらへ抜けておるような、もうそのもうなんとも言えん、悪質の腫れ物であるに違いはない。もう、まで疼くと言う程である。それでもやっぱりお参りし続けられましたからね。御神米が五体下がった。その五体の御神米をお神酒さんに浸して、付けられたらもう、それきり外れなかった。
少し痛みが和らいでそれを剥ごうとされたところが、中からちょうどニカワのような硬いものが、その御神米に付いて取れた。それから大変楽になられて、今日のおかげを頂いておられます。けれどもとても私共では出来もしないような、大きな願いをさせて頂いておりますから、そのための修行として頂きますと言うておられます。もう御徳を受けないはずがないですよね。おかげは皆さんがご承知の通りのおかげを受けておられます。娘婿さんはすぐ近所にお医者さんがおられます。
けれどもお医者のおの字も思いませんでしたち言われます。なぜかとこれが今度大会が開かれる事のための、おかげを頂くための修行だと思うから、それが有り難いですね。もう晩はどんこん眠られない。だから一生懸命御神前に出て御祈念をする。で夕べも寝なしに、朝お参りをさせて頂いたと言う様なのが、幾日も幾日も続きました。そういう私はね、あの信心をさせて頂くならば、もういよいよ有り難く、一年一年有り難うなっていくでしょうし、同時に必ず人に尊ばれ、大事にされるおかげが約束されると思います。
お互いの信心を果たして毎日参りよるから、拝みよるから有り難くなる言ではありません。おかげを頂いてから、有り難いというのは必ずそれはさめます。けれどもね一年一年有り難うなるような信心をさせて頂いておりますとです、その有り難うなって行く事が楽しみになります。祈りの内容が大きくなってくる。祈りの内容が充実してくる。しかもです痛い痒いも、例えば昨日も申しますように、どういうほんなら不如意な子とがあったり、願いの反対の事になりましても。
こういう大きな願いをさせて頂いておるのであるからと、それをまともから修行として受ける心が生まれてまいります。熊谷さんのその今度の修行がそれでしょうが。大きな願いを持って、ただ自分が健康でありさえすれば良いというくらいな願いであるならばです。とてもとてもそれこそ、昨日もあれ言っておられましたが、もし親先生あれば医者に見せておったら、どういう手当てをされたかと思うたら、思うただけでも、身の毛がよだつと言うておられます。神様のおかげでね。
ですから大きい願いを持つとですね修行がいうならば、もう当たり前のようになって来るですね。昨日、聞いて頂きました様に、おかげが育つ蕎麦をもうお供えするばっかりになっとる。もう結んで上に化粧麻を付けるだけで良かこつなっとる。おかげがそばという時に、必ず神様が修行を求め賜う。またはお試しの必要を神様が感じなさる。もうおかげをやる気を十分に、神様が見せておられる。でお試しを受けると、それでどうしてこう言う事になるじゃろうかと言うて、信心が回り道をする様な事になる。
どう言う事になるかというと、もう神様がちゃんと用意して準備してござるおかげをやるために。ためのお試しがあったら、もうそのお試しに落第するんですから、また初めからやり直しという事になるんじゃないでしょうか。昨日光という事を頂いたが、そこのとこを頂きぬいて、初めて力であり光であります。そういう光が力がです。有り難いというものになってくるのです。これがいうならば生涯続くのですから、信心させて頂いておれば、一年一年有り難うなって行く道理です。
どんなに毎日朝参り夜参りさして頂いても、ただ執熱かごと御祈念をさせて頂いても、それが自分の孫の事やら、自分の子供の事やらばぁっかりであるとするならばです。幾ら年をとっても有り難くはない。私はその婆しゃまを知っとりますが、私共のはとても良かったけれども、非常に根性の悪い婆しゃまで、そのやっぱ根性悪の婆さんとしてですね、あんまり大事にされなかったです。
ですからねそういう、例えば人がです段々今度はお参りも出来んごつなる、働きも出来んごつなったら、かえって若い者から嫌悪されるというか、敬遠されるというか、嫌われるような年寄りにならなければ出来ません。けれどもそのお婆さんのおかげで、私も助かったこの人も助かっておられると言う事になってまいりましたらです、その人達が大事にしないはずがありません。同時に神様がお粗末には取り扱いなさいません。
だからそれこそ信心も出来んのに、神様からこの様なおかばいを頂いて勿体ないという心が、いよいよ募っていくばかりです。信心すれば一年一年有り難うなって来る。その有り難いというのが、自分の信心を分からせて頂く尺度のようなものです。一年一年有り難うなっていっていないならば、ひとつ本気で自分の祈り、自分の信心と言うものが、本当の事になっていないんだと悟らせて貰うて。
それこそ少しは増しなお役に立ちたい一念を、燃やさせて貰える信心にならなければいけません。そのためにひと修行させて貰うと言うような信心になったら、いよいよ尊い有り難いものが頂けるようになります。今月の焦点をお役に立ちたい、だからお役に立ちたいという、例えば人の助かりへの行願一念。お役に立ちたいの行願一念と言う事になったら、素晴らしい事になりますでしょうね。
どうぞ。